昭和41年08月01日 朝の御理解
(途中末尾切れ)
御理解 第1節に
「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」と。「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」
第2節に、
「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。」と「神徳は、信心をすればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない」。
今、天地の開ける音を聞いて目を覚ますと、と言う事はどう言う事だろう。私はこの今、天地の開ける音を聞いて目を覚まして行かなければ、神徳は受けられないですね。信心をすれば、誰でも受ける事が出来ると仰る事は、誰でも御神徳を受けられれる。受け心とか受け物、というものは持っておるんだけれども、それを例えば、ようんなら受けてないという事実が有りますから。
誰でも受けられるという事は、人間神の氏子であるという自覚に立たせて貰って。神の氏子としての値打ちを、作って行こうというのが信心であるから、そういう気持ちになれば、誰でもおかげが受けられると言う事であると私は思うんです。「人間は万物の霊長である」と仰る。ですから信心とはその万物の霊長である所の、その霊長である所の値打ち、いうなら霊徳というものをいよいよ身に付けて行こうとする事が信心である。ただお参りしよるから信心というのじゃない。拝みよるから信心と言う事じゃない。
神の氏子としての、値打ちを創って行こうとする願い。霊長としての、霊長の値打ちを現して行こうとする願い。だから、おかげを頂いて行こうとする、と言う事は是は信心じゃない。その証拠には誰でも受けられると仰るけれども、なら御神徳を受けたという人は、沢山はないでしょうが。ですからおかげを受けて行こうと、おかげを受ける為にお参りをしておるというのでは、それは信心じゃない。
万物の霊長としての値打ちを、誰でも人間は万物の霊長と言われておりますけれども、なら霊長なら霊長としての値打ちを、その霊徳を自分のいよいよ心の中に、光輝くする様にして行かなきゃならん。神様の氏子としての自覚に立つ。神様の氏子としての値打ちをいよいよ発揮させて頂こうとする。そういう願いの元に信心をさせて貰う、稽古をさせて貰うと言う事が、そう言う事が信心であって。そう言う事になれば、誰でも御神徳が受けられるという事だと思う。皆さんどうでしょうか。
自分は万物の霊長であるから、霊長としての値打ちをいよいよね、霊長としての値打ちというのはどう言う様な事だと思う。霊徳というものが身に付いて来る。神様の御神徳は誰でも受けられると。と仰るその、誰でも受けられる神徳が付いて来たら、どう言う事になるか。矢張りその、神徳と霊徳とが一つになって私共の幸せというか、又は誰でも受けられるというそのお徳というものが成就して行く訳なのですだから。
そこんところを願う事を、なら教祖の神様は「信心とは本心の玉を磨くものぞや」「信心とは日々の改まりが第一」ぞと仰っておられる。改まりと言う事に、本気で磨くと言う事に心掛けておらなければ、決して霊徳も神徳も身には受けられません。あん奴は人間の面被っとるだけ。いうに同じ人間でもそういうでしょうが。あんまり浅ましい事をしたり言うたりすると、あれはまぁ人間の面を被っとるだけ、人間の皮被っとるだけ、人間の面しとるだけじゃ。
と言う様な、んなら人間がどのくらい多いか分からんです、私は思うですね。それにはです、今天地の開ける音を聞いて目を覚まさせて頂かなければいけん。どうでしょうかね、神徳、霊徳身に付いて参りましたら本当に有り難い事になる。今朝が、丁度5時ちょっと前位から停電しておった。御祈念中停電しとったですね。で何時もの様に語結界につかせて頂いてから。まぁ今から御理解を頂かせて貰おうと、今日は御理解の第一節と頂いておったから、私は今御理解の第一節を開けておった。
ここんところお話しようと思ってから。そしてなら、「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」ていう事はどう言う様な事だろうかと。と思うておる所へ電気がパッと点いた。目を覚ますと言う事はこう言う様なです、例えば暗い心。お先真っ暗。どうなるやら分からん。と言う様な中にある事が是は心を、今天地の開ける音を聞いて目を覚ましてない姿なんです。目が覚めますとですね、パッて今の暗い所に電気が点いたような心が開けて来るんですよ。どうでしょうかね皆さん。
そういう心が時々ずっと開けて行かなきゃいけません。そりゃ昼もありゃ、夜もあるですけれども。そういうたんびに自分の心がパッとこう開けて参りますと、その問題がその問題がです、もう有り難い事になって来る。はぁそうだったと心が明るい、一遍に電気が点いた様に心が明るくなって来る。ちょっとした問題が、心の中にもやもやしておる。心が暗くなる。
神様にお縋りをする。その事を砥石とさせて貰う。心を、その事を思おうて磨かせて頂きよるとです、神様が与えて下さるのが、おいこらこらと言うて、目を覚まさせて下さる様に。心の目が覚める。言わば、今、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたんです。そこには自分の心の中にパッと電気が灯った様な事になる。ですから本当は、その昨日夕べでしたけれども、あの久富繁雄さんが参って見えてから、あの丁度昨日あちらのお母さんの一年のご法事がありました。
それでご兄弟、勇さん達もその前日に一家をあげてから、あちらの除草の御用を頂いておられた。その翌日繁雄さんがあちらに草取りに行っておられる。ほれでその勿論こう草取りは、もう専門ですね。それはもうベテランですから。それで私は昨日は、夕べ初めて聞きました。あの草取り鎌がある事は知っておりましたけれども、あの草取り鎌もずっとあの、研いでいかなければ駄目だそうですね。直ぐ駄目になっちゃう。それで私はあの、前、御用した時には、あの砥石もちゃんと一つ持って行っときました。
昨日はどうでしたでしょうか。砥石持って行った人がおったでしょうか。草取り鎌だけは持ってきとるばってん、砥石までは持っていっとらん。あぁ、行き届いておる事じゃなぁ。ましてその、稲を刈るかなんかなら砥がいるかもしれんばってん。草取り鎌には私は、砥石がいるって初めて聞いた。でも持って行っとりましたから、何べんも砥いでから、取らせて頂いたという話しを聞いてからです。
何時も砥石を持って歩かないかん。それを何時も磨こうとか、何時も改まらせて貰うという願いをお互いなからにゃいかん。是はねぇ改まろうと言う事はですよ、もう家族の者でも親子でも夫婦でもです、ある程度その意欲がないなら、どうにも出来ない事です。皆さんどうでしょうかね、家庭だけなっとんいっちょ親子、兄弟夫婦。本気で一つ改まろうじゃないかと、その為にはね、お前だん気が付いたら教えてくれと。私にも教えて下さいと。そういうものがですね、私は必要だと。
もう私はその事はもう、もうお祈りがあったらその事を誰からでも聞きたいと思う。いわゆる受け入れ体制を作っておくのです。もう椛目でもですね、私は本当に、私は何処ば改まったら良いでしょうか、という人があるならば、もうそげん言うならもう、何時でも教えてあげたい人が、沢山あるんですよ。けれども中々その、いうなら痛い所であったりですね。まぁそこんところをもう、振られまい振られまいと、いう様な風に努力する人があるですから。
それではですね、お教えてあげようがない。もうですね、そりゃ心の中にあるものなら、私共には分かりません。それはだから自分が取り組んでおられるから、取り組んでおられるそれで良いのです。けれどもはっきり形に表れておる人があるんです。ですから一皮脱ぐならばんなら直ぐ改まりが出来そうなと云う様な所があるんです。ですから心の中のものなんか、っていうものはこりゃ自分だけしか分かりません。神様だけしかご承知じゃない。直ぐに改まりがない。
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